早期退職おじさんの日常

早期退職制度を利用して57歳で会社を辞めました。

金持ち貧乏な子どもの夏休みの思い出

以前ブログに自分が中高生の頃の話を書いたが、今日はその第二弾でもっと小さい時の話をしようと思う。

以前に少し触れたが、うちは僕の曽祖父の時代に財をなし、それを二代目である祖父が穀潰しとして借金を残して死に、三代目の父が借金返済をして、僕たち兄弟の時代でようやく一般的な家庭になったという経緯がある。

個別に表すと、
ひいじいちゃん→苦労して成功した人
じいちゃん→生まれてから死ぬまでボンボン
とうちゃん→子どものときだけボンボン
ぼく→家と庭だけやたら広い貧乏

という家系だ。うちが実は貧乏だったと知ったのは、高校生になってからである。学校に納める金をもらえなくて、新聞配達のバイトでセルフ調達していたのだ。

子供のときは泊まりがけの家族旅行などしたことがなく、行っても日帰りでの町内会の海水浴ぐらいしか記憶がないが、あれも実は貧乏だったかららしい。

農家でもない一般家庭のくせに、家は敷地が300坪あった。うち建屋が100坪、残りは全部日本庭園と数台分の駐車場である。本物の資産家の土地には遠く及ばないが、老舗旅館と間違われるくらいのそこそこ大きな家で、いわゆる田舎の中途半端な成金豪邸だ。

子供の僕にとっては、家の敷地内だけで十分遊びに満足できる広い家だった。長い夏休みは、遊びに来た友達ともっぱら庭でセミ捕りや鬼ごっこ、かくれんぼなどをして過ごしたものである。

庭には木(ほとんど松)が30本以上植っている。適度に丘のようなものもあり、樫の木の割れ目にはクマバチの巣などもあった。そんな木々には他にもマツヤニや毛虫があふれていたので、木登りだけは自粛していた。

また、建物の表庭と裏庭それぞれに池があり、探検と称してゴムボートを浮かべ、糸に鯉の餌を吊るして魚釣りの真似ごとなんかもしていた。

親から言われていた庭遊びのルールは2つ、「灯籠に決してよじ登るな」「石に付いてる苔を絶対むしるな」といういわゆる景観条例と安全確保である。今思えばそれだけのルールであとはやり放題とは、日本庭園も泣いていたことだろう。

雨の日は家の中で、やっぱりかくれんぼや鬼ごっこ三昧だった。100坪2階建 (現代風にいうと12LDK)、玄関は家人用と使用人用の2つがあるような家だった。隠れ場所や逃げ場所には不足しない。ちょっと凝った隠れかたをすると小さな弟には絶対に見つけてもらえないので、わざと見つかりそうな場所に隠れていたくらいだった。

また、2階にはパリピ祖父の趣味なのかダンスホールまであり、そこでは前方のステージでのど自慢ごっこなんかもやっていた。

そんな、貧乏というにはあまりに贅沢な場所で僕は育っており、あの頃はそれが普通だと思っていたのもおかしいが、今思えば本当に異質な環境だ。周囲の昭和な子供とはかなり違っていたかもしれない。

無邪気に遊んでいた陰では、親たちが固定資産税などのオトナの金の心配をしていたんだろうななどと気がついたのはずいぶん大人になってからだが、祖父は父の金すら遊びに使い倒していたから極悪非道である。

ちなみに当時の土地と家は、祖父が亡くなってしばらくしてからようやく売り渡すことができ (もちろんその金も祖父の借金返済で消えている)、現在は更地になってしまった。取り壊されたときは少し寂しかった。

近所からは金持ちの家と思われていたし、市内中に名が知られた名家wだったが、実情はこんなもんだ。しょっちゅう泥棒に入られたりもしたが、その話はまた別でお話ししようと思う。

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