早期退職おじさんの日常

早期退職制度を利用して57歳で会社を辞めました。

僕の知らない昔の家族の話

この間は自分が高校生だった頃の話をしたが、自分が生きていた時代は全部ひっくるめて「最近」と僕は表現している。

そんな最近のことよりも、もっと昔の、自分が生まれる前の人々の生活を知るのが僕は好きだ。身近なところでいうと両親や祖父母の若い頃の話や、さらには本からしか知り得ない江戸時代以前の話など。

身近な人から聞く昔の話というのはたいてい何かしらの補正がかかっているので、厳密にそうだったとは言いがたいところはあるが、それでも自分の知らない時代の話を聞くのは楽しい。

なのでまだ生き残っている母(昭和17年生まれ)との会話では、なるべく思い出話を引き出すような話題を振ることが多い。

今まで母から聞いてきた話の中で、楽しいなあと思ったのは以下のものだ。

  • 自分(母)は6人きょうだいの末っ子だ。昔はバンバン子供が死んでたから、あらかじめ多めに子供を産むのが普通だった。だから自分は予備として生まれたが、なぜか6人全員が普通に成人してしまい、6人中3人が今も元気。(大正生まれの長兄は先日99歳で大往生したそうだ。)
  • 昭和20年代の子供の頃は近くの川でいつも遊んでいて、そこで泳ぎを覚えた。たまに子供が流されて死ぬのも見た。初めて海に入ったときは、川と違って何もしなくても(塩分のせいで)浮くのでびっくりした。
  • 昭和30年代の高校時代は登山部だった。共有の荷物を分担して運ぶのに、ジャンケンに負けていちばん重いガスボンベを運ばされた。女性差別はなかったが優遇もされていない。
  • 高校生のときに車の免許を取って軽自動車(当時は360cc)に乗っていた。田舎では「女が車を運転してる!」とまだ珍しがられた時代。道路は未舗装だからしょっちゅうスタックして、困り果てているといつも後続車から次々とおにいさん達が出てきて、車の四隅を持ち上げてひょいと動かしてくれた。若い女でよかった。
  • 高校生のとき、着飾って電車で街へ遊びに行ったはいいものの、豪雪で電車が止まり帰れなくなった。電話で家に救援要請をしたらなぜか長兄から仕入れを頼まれ (家は商売をしている)、オシャレスタイルのまま仕入品を入れた風呂敷を背負い、吹雪と雪山の30kmを歩いて帰った。

とまあ、こんな具合。若い頃はチャラい女子高生だったので、だいたい自分の興味のあることしか覚えていないようだが、当時の雰囲気はよく伝わる。

 

チャラいといえば、僕の祖父は晩年まで筋金入りのチャラ男だった。

田舎の明治生まれにしては珍しく東京の私立大学を出ている。大学生だったのは大正の終わりから昭和初期にかけての頃だ。

北欧風の顔立ちなのでさぞかしモテたんだろう。カフェーで知り合った女性と東京で学生結婚したものの、女癖が良くないこともあって翌年には離婚した。

祖父が大学卒業後に田舎に帰ってきてすぐ見合いをしたところ、相手の女性から一目惚れされ、また結婚した。そうして生まれたのが僕の父だ。

上記のこれは祖父本人から聞いたわけではなく、老人となってからの祖父の様子と、父母から聞いた話と、祖父の戸籍謄本を分析して僕が想像を働かせた内容なので話半分以下で聞いてもらえればいい。

普通、晩年はおとなしくなるものだが、祖父は80歳を過ぎても20代の女性をナンパして家に連れてきていたので、両親も困っていた。せめて借金なしで死んでくれたらよかったのにと、後年父がブツクサ言っていたのを覚えている。

僕の父はそんなチャラ祖父を反面教師に育ったので、仕事も熱心だし子煩悩だったけれども、亡くなったあとに母が「突然どこかから隠し子が現れたらどうしよう」と心配していたことがあった。この親にしてこの子あり、ってことなのか。

ちなみに祖父自身は3人兄弟妹だが母親が全て異なる。そして父は2人兄弟だが、やはり母親は違う。兄弟だけでなく母親どうしも仲違いすることはなく、普通に兄弟・親戚の関係だった。

祖父も曾祖父も県議会議員を経験しているので、単なる金遣いの荒いエロじじいではなかったみたいだし、当時はまだそういうことがちょいちょいあったようだ。そんな「昔の人ってそうだったよね」というひと言の中にも、様々なドラマがあるんだなと思ったりしている。

僕はというと、別に女癖は悪くないし最近は興味もないけど (彼女はいるけど)、離婚も経験しているので結婚には向いてない性格のような気はしている。血筋として受け継いだのはマイルドタイプだったみたいで、そこは自分的にはセーフだと思いたい。

高校生時代の話

現在のおじさんたちが、昭和50年代後半の高校生だった頃に、どんな青春時代を送っていたかという話でもしよう。

僕がどうだったかというより、当時の若者全般の話だ。

僕は昭和39年のオリンピックイヤー生まれなので、その近辺に生まれた人なら共感してもらえるところがあるかもしれない。

高度経済成長期はとっくに終わって、バブルはまだ来ていないという、そんな高校時代。

当時、芸能界はアイドル全盛期で、たのきんキョンキョン中森明菜早見優松田聖子松本伊代堀ちえみなどが活躍していた。おニャン子チェッカーズも同年代ではあるが、高校時代に彼らはまだ登場していなかった。

ちなみに、山口百恵南沙織麻丘めぐみなどはひと世代上で、小学生のときに女子たちが夢中になっていた。

そのほかには、すでに第一線にいたユーミンやサザン、アリス、オフコースアルフィーなどが人気だっただろうか。

YMOがカリスマ的な登場をし、子供からお年寄りまでもれなくテクノカット(もみあげを剃る)にするという、昨今では見られない現象も起きていた。

タケノコ族がブームで、体育祭の応援団といえばタケノコファッションか長ランに二分されるようなカオスな状態だ。この二者に共通していたのはリーゼント。しかし、軟派と硬派に完全に分かれていた。

僕ら田舎の高校生は、ブランド服を着たくとも近所には売っていなかったので、ジャスコで買った個性とはほど遠いファッションをするのがお決まりだった。

当然センスが磨かれるわけもなく、だれもが髪をテクノカットにし、短かめのジャケット(当時はジャンパーと呼んでいた気がする)を羽織り、無駄にタックがたくさん入ったズボンを履き、シャツをズボンにインするという姿で、休日にチャリンコを漕いであてもなく出かけたりしたものである。

まだファミコンがなかったので、家で過ごすのは勉強か読書かぐらいなもんで、そういうタイプはネクラ(陰キャのこと)などと呼ばれたりした。

よく「携帯電話のない時代にどうやって連絡を取り合っていたのか」と聞かれることがある。だが、今考えても携帯電話なしでどうしてコミュニケーションが取れていたのか、自分でも不思議でしょうがない。僕たちおじさんは、携帯電話が一般に普及し始めた平成中期から、どっぷりと携帯電話とともに過ごしているから思い出せないのだ。僕もケータイ歴26年だ。

当時は、学校で事前に約束するか、直近なら家電(いえでん)で「〇〇くんいますか」と所在の有無を確かめることからやっていたように思う。いなければいないで「はい、次〜」と捕まる相手を探すまでである。相手が女の子の場合は、受話器をとってダイヤルするまでに、「親が電話に出たらどうしよう」と、ためらいと決意の間を何往復もするなんてこともあった。

 

昭和ブームか何かよく分からないけど、最近よく古き良き時代などと呼ばれて、昭和を一括りにされることがある。僕はこれを非常に不満に思っている。

なぜかというと、昭和は60年以上続いた時代だ。「古き良き昭和」を模したものは主に昭和30年代を指していると思われるが、戦前からバブルまであれほど目まぐるしく変わった時代を「昭和」でまとめられるのが違和感この上ない。平成で例えるなら安室奈美恵と橋本環奈が同時代同年代にされるようなものだろう。

あと付け加えるなら、今の世代の人が考えるほど良き時代なわけがない。仮に現代に不満を持つ人が当時にタイムリープしたら、不満が増幅するだけで終わると思う。モラルなんてないに等しい時代だからな。差別言葉に「差別」という概念はなく、おじさんは人混みでくわえタバコ、池の周りに柵はなく子供は溺れ放題、バスや電車だって降りる人を押し退けて我先に乗車口へ殺到するのが当たり前だったのだから。長距離列車に至っては「駅弁を食べたあとのゴミは、きちんと座席の下に置きましょう」というのが正しいマナーだったのである。信じられるかね?

 

話は少し変わるが、僕の両親は僕と同じ昭和生まれ(ただし戦前)だ。そして祖父母は明治生まれ。

子供だった頃の僕は、祖父母が生まれた明治時代なんて遠い遠い大昔の話だと思っていた。なにしろ祖父母のさらに両親世代に至っては、江戸時代か文明開花時代の生まれなのだ。もう歴史の教科書の世界だ。

最近は、子供は令和生まれ、親は平成、祖父母が昭和、というパターンも増えてきたと思う。それはつまり、令和の子供からみた昭和生まれのおじいちゃんやおばあちゃんは、僕たちが子供だった頃に置き換えると「大昔の明治の人」という感覚に等しいわけである。

僕らの高校時代も、本当に歴史となってしまったわけだ。あの頃から気持ち的には何ひとつ進化していないのに。

明治のおじいちゃんおばあちゃんも、見た目とは裏腹に心は学生のときと変わっていなかったんだろうか。

そう考えるとなんだかすごく不思議な気持ちになる。

職業訓練の選考会

職業訓練の選考会に行ってきた。

クリーニングに出していたスーツは間に合った。数年ぶりにスーツを着たが、ネクタイを締めるとどことなく気が引き締まる。少し緊張してきた。

髪もひさびさに整えて、鏡で見る姿とは裏腹に、ガッツリ就活生な気分だ。

僕の希望する「総務・実務コース」は20名の募集枠に対し40名超の応募があるのだが、指定時間の20分前に選考会場に到着したにもかかわらず、すでに半数程度の人が着席していた。ほとんどが僕よりずっと若い女性だ。みな就職面接用の黒っぽいスーツを着ていて、その中にポツンと入った僕はとても場違いな雰囲気が漂う。

係の人に案内され、40人が入るには少し手狭な机の間を「すんませんすんません」と手刀を振りながら指定の場所に着いた。

参加者が埋まったころに周りを見渡すと、僕と同年代らしき女性や男性も少数だがいる。安心した。

時間になり、最初の30分は選考会で行なう内容の説明のほか、以下のような諸注意と連絡を受けた。

  • これは職業訓練であり、就職する意思のある人が受講するべきものだからね
  • もし趣味や時間潰しのつもりで受けようとするならお門違い。なんなら今すぐ退出してもらって構わないよ
  • 今日は筆記テストが終わったら一人ずつ面接をするので、それが終わったら帰っていいよ
  • 一週間以内に合否通知を郵送するから、もし届いてなかったら連絡してね
  • 選考で受講が決まった人にはあらためて説明会を行なうから、合否通知と一緒に入ってる説明をよく読んでね
  • ちなみに受講途中で就職が決まって退所することは可能だよ

「趣味で受講する」の部分で僕のほうを見て話していたような気がしたが、気のせいだと思いたい。きっと過去に実際そういう感覚で受講しようとした人がいたのだろう。税金を使って職業訓練するのだから、趣味で受けられたりなんかしたら納税者としては迷惑な話だ。

最初の筆記テストは、いわゆる「適正テスト」と呼ばれるものだ。この日のために研ぎ澄ませてきた鉛筆が本領発揮する時がやってきた。

内容は、簡単な筆算や短文の誤字探し、展開図から組み立てた図形を選ぶなど、誰もが経験したことのあるものだと思う。時間との勝負なのにも関わらず慎重に進めすぎて、半分程度しか答えられないセクションもあった。

続いては面接だが、これはどうやら申し込みの先着順らしい。僕は最後から2番目だった。

一人あたり10分程度とのことで、複数の面接官が手分けをして同時に数人が面接できるよう工夫されていたが、順番が回ってくるころには2時間が過ぎていた。待ち時間が一番疲れたかもしれない。

軽い自己紹介と応募の動機、あとは面接官の質問に答えるという、多分よくある就職面接である。(こういうのは30年ぶりなので、自分の就活生時代のことは全く覚えていない。)

「早期退職して、今後は個人事業主として仕事をするつもりだが、ずっと技術畑にいたのでお金のことが全くわからない。だからここで勉強したいと思った」という、このブログで以前から書いているようなことを素直にそのまま話した。

面接官は、決して意地悪ではなくシンプルに疑問として「社会人経験が長いんだからお金のことはそれなりにわかっているのでは?」と問うてきたが、そこは「いいえ全く」と潔く答えた。あらまあという顔をされたが、面接官自体がお金のプロなので、いい歳したおっさんはみんなお金のことを勉強していると思い込んでいるのだろう。まあしょうがない。

ちなみに面接官は、自治体から教育を委託されているビジネス学校の講師である。晴れて受講となった場合に先生になる方々だ。

ここまでのやり取りで僕は気づいた。面接における合否の判断基準は、どうやら「受講後の一定期間の間に就職できる見込みがあるか」ということのようだ。委託業者ゆえ「就職率」という実績が今後の委託継続に関わってくるわけだ。おじさんはそういうところに勘が働くタイプなのだ。

実際僕が「個人事業主としてーー」と話したところで、あからさまにぱあぁっと目を輝かせて「確か個人事業主の届け出も就職実績に入りますよねっ」と面接官どうしがキャッキャと盛り上がっていたので大変わかりやすかったのだけれども。

終始なごやかに面接は進み、終わったころには5時の時報が聞こえてきた。

今日の調子だと僕は見込みありかもしれない。向こう一週間、ドキドキしながら毎日ポストを覗くことにする。

9年ぶりに鰻丼を食べた

岐阜県関市の老舗鰻料理店へ行ってきた。

ウナギを食べるのは9年ぶりだろうか。

鰻の漁獲量は平成25年の記録的不漁の頃からあまり劇的に上がっておらず、しばらく食べるのを控えていたのだ。世の中がウナギ自粛の傾向にあるせいか、以前に比べて老舗の鰻料理店が随分減っているように感じる。

牛丼チェーン店で格安の鰻丼が供されるようになったり、ここ2年のコロナ禍不況もあって、ますますそういった老舗店は苦境に立たされ続けているのだろう。

しかし食べるのを我慢したせいで、せっかくお客さんに食べてもらうために用意された食材が無駄になるというのも本末転倒である。

鰻屋さんにはどうか生き延びてほしい。そんな思いを抱えながら、ウナギ食べたい欲の限界点を迎えた僕は、先述の老舗鰻料理店、辻屋へ行ってきた。

建物もたいへん年季が入っている

辻屋は江戸時代末期ごろの創業だそうだ。

関市の中心部にあるアーケード商店街の一角にあるのだが、他の店はシャッターの閉まった店が多く、この店だけ行列ができているような状態である。

関市内には他にも何軒か有名な鰻料理店があり、行列嫌いの僕は他の店にも行ってみたのだが、どこも閉まっていて結局行列に20分程度並んだ。

店内はかなり広く、満席のために料理が出てくるのにも時間がかかる。

30分ほど待ってようやく僕の席にもウナギがやってきた。

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10年前までは並丼だったものが、今は上丼と名前を変えていた。値段も3000円ちょっと。米が以前より固くなったように感じたが、それは多分自分が歳を取ったせいだろう。変わらぬ辻屋の味で安心した。

 

店内の池には、ペットの大ウナギ (20歳) もいる

息子の敵を母が討った話

今日は参議院議員通常選挙の投票日。

ぼくは当日投票と期日前投票どちらにするか悶々と悩んだ挙句、どうせ平日は暇だしと、期日前投票を選んでしまった。

Twitterハッシュタグ#ゼロ票確認ガチ勢 で賑わっていて、中には現役高校生が初の投票で投票所一番乗りを達成したという報告もある。

不戦敗を選択した僕としては、指を咥えて眺めているしかない。悔しい。

と思っていたら、80歳の母から「一番乗りを果たした!」というLINEが来た。

母のすぐあとに、一番乗りを目指したと思しき派手なシャツの男性が意気揚々とやってきたが、母の姿を見るなり愕然としてガックリうなだれていたそうだ。

母は、勝ち誇ったように嬉々として報告してくれた。

でかしたぞ母よ。

にしても、どこの投票所もゼロ票確認ガチ勢の一番のライバルはお年寄りのようだ。きっとゼロ票確認一筋70年という猛者もいるに違いない。

次こそは選挙で勝つぞ。

雇用保険と職業訓練を申し込んできた

昨日は国民年金と健康保険の支払いの手続きについて話したが、今日は受給のほうの話をしよう。

ようやくハローワークへ行ってきた。

目的は2つ。

どういう説明を受けたかは省くが、僕は1日あたり6,000円で150日間もらえることになった。年齢と勤続年数から算出されたのは最大レベルの支給額だ。

これまで長年たくさんの税金や保険を払ってきたのだ、このくらいのキャッシュバックはもらえて当然だという気持ちで望みたい。

通常、受給までには待機期間というものがあり、約3ヶ月経過しないと認定対象期間にならない。だから10月からの支給となる。ただし、職業訓練に通えば繰り上げで支給されるという。

その足でさっそく職業訓練の申し込みを行なった。

以前ブログで書いた通り、僕の希望する訓練は「総務・経理実務」コースである。今後個人事業で食っていくためには必要不可欠と判断した結果だ。

完全退職前に説明を聞いたとき、すでに30名超の応募があったそうだが、その数は40名に達していた。定員20名に対し応募者数40名。なんと倍率2倍の難関受験だ。

筆記テストと面接がある。選考日は7月13日とのこと。

ハローワークの担当者からは「就職面接のつもりで行ってくださいね。つまり服装もスーツってことですよ」と言われた。

この雨と暑さが続く最中にネクタイを締めて上着を着るのか。くたびれサラリーマン感がマシマシじゃないか。せめて靴は磨いていこうと思った。あ、いや、スーツも会社でほとんど着ていなかったから、やっぱりワイシャツと一緒にクリーニングに出そう。多分カビが生えてる。

選考会があると知るまで、正直なところ職業訓練なんて「受けたい人みんな集まれ」程度の感覚で受講できるものだと思っていたので、今はとても緊張感が増している。

だからといって事前に何かできるわけでもない。先日用意した鉛筆を、必殺仕事人が使えるレベルまで鋭利な武器に仕上げることぐらいしかできない。

クリーニングは4日間で仕上げてもらわなきゃな。

今日は七夕



 

国民健康保険と国民年金

真っ当な無職となり、会社の保険証を返納した日のこと。

まずは新たに保険証を手にしないと心配で仕方がないので、とりあえず市役所へ行ってきた。

退職前に会社の総務から、「健康保険は無職であっても2年間だけ社会保険を任意継続することができますよ」という説明は聞いていた。国民健康保険社会保険 (協会けんぽ) のどちらかを選択できるらしい。

離職票や健康保険資格喪失証明書など、会社から送られてきた書類を根こそぎ持ち、市役所で説明を受けてきた。

国民健康保険社会保険どちらにするべきか悩んだが、国民健康保険を選択した。国民健康保険の金額は、前年の1月〜12月の所得などから算出される。社会保険と比較してシミュレーションした結果、今後はほぼ収入のない期間があることから、国民健康保険のほうが少しだが支払い金額が少なくて済むようだ。
が、ガッツリと給料をもらっていた時の収入で算出されるので、少なくとも今年は月々37,000円程度の支払いが必要だ。

それと同じくらい悲しかったのは、受け取った保険証がペラペラの紙だったことである。せめてラミネート加工ぐらいは欲しかったが、そこは自分でカスタマイズしろということか。カードタイプの立派なものをもらえるとばかり思っていたので、格差に打ちひしがれた。

次に国民年金の手続きを済ませた。
実を言うと、健康保険の他にも支払わなくてはいけないものがあることを知らなかった。ショックだ。
「会社にいたときにそんなお金払ってたっけな」とあわてて給与明細を見たところ、ちゃんと「厚生年金」という欄がある。長年会社という組織にいると、国民年金国民健康保険の違いすらわからない人間になってしまうようだ。

もちろん会社に属していなければ厚生年金の資格はないため、選択の余地などない。国民年金の月あたりの金額は約16,000円程度である。

とりあえずこのふたつの手続きを済ませたので、明日からも人間として生きていけることになった。

息をするだけで月々5万3,000円。。。

ああ、そういえば所得税もまだしばらくは、会社員時代の収入から算出されるんだった。それも合わせたら7万円超えじゃないか。

うっかりネガティブ思考に陥りそうなので、ちょっと考えかたを変えよう。

つまり僕は、月々7万円以上の価値のある人間だ。
そして、僕の7万円で経済は回り、たくさんの人々が今日も生活できている。
お願いだから皆さん僕に親切にしてください。