退職金をゲットした
来た。ついに来た。会社からもらえる最後のお金、退職金が振り込まれた。
金額は503万円だった。
中小の一般企業の定年退職金として多いのか少ないのかは知らないが、僕自身の体感では「えっこんなに!」という金額だ。
そのうち174万円は早期退職制度による特典なので、勤続30年の純粋な定年退職金は300万円ちょっとということになる。
確定拠出年金の会社負担分はここに含まれていないので、それも入れるとあと200万円程度は多いということになるのかな。
これが通常の中途退職であれば、どんなに評価が高い社員であっても60万円程度らしいので (同期社員から聞いた)、ここは素直に「こんなにたくさんのお金をありがとう」と言うしかあるまい。
先日、国民年金と国民健康保険をまとめて払ったばかりで先行きが心配だったので、このレベルでまとまったお金が入ったことで心の安寧につながった。しかも定年退職金だから全額非課税というのもありがたい。
いやっほう
現在の貯金総額は650万円で大幅増額。冷静に考えればまだまだ心許ない桁数だけど、今晩だけは会社に足を向けて寝ないことにする。
朝から家に警察が来た話
今朝は7月にしては珍しく気温が低く清々しかったので、久しぶりに散歩をしてきた。
家に戻り、汗を流すために軽くシャワーを浴びる。
風呂から出たタイミングで「ピンポーン」と玄関のチャイムがなった。まだ朝の8時過ぎのことだ。
宅急便も心当たりがないし、こんな朝っぱらからってことはきっと宗教の勧誘かな、と思いながらインターホンの画面を見たら、背中に「POLICE」と書かれた上着を着た男性が後ろ向きで立っていた。なぜ後ろ向きなのかはわからない。POLICEを強調したかったのだろうか。
しかし、朝から警察に来られる心当たりなんて全くない。
玄関の外はなんだか慌ただしく、ただならぬ気配を発していた。ひょっとして殺人事件でもあったのか。それとも転落事故かはたまたストーカーか。
ちょっと驚いて、あわててその辺にあった服を着て玄関を開けたところ、警察官が3人いた。僕の住むフロアをバタバタと行ったり来たりしている。
チャイムを押した警察官が僕に尋ねた。
「すみません、ひょっとしてお宅で犬を飼われていますか?」
「いえ飼ってませんけど」
「マンションの敷地内でワンちゃんを保護しまして、今一軒ずつ訪ね回ってるところなんです。トイプードルなんですけど、心当たりないですかねえ」
見ると、その警察官の足元で、人懐こそうな茶色いトイプードルが尻尾を振っている。とてもかわいいワンちゃんだったが、僕と目が合うなり、いきなり「ガルルル」と戦闘体制に入った。
僕は犬に吠えられやすい体質で、道を歩いているだけでもたいてい近所の犬から喧嘩をふっかけられる。外で飼われている犬なら紐を引きちぎりそうな勢いで飛びかかってくるし、小さな室内犬だって窓ガラスが割れるかと思うほど突進してくるのだ。
茶色くかわいいトイプードルも、今の僕の前ではただ目つきの悪い凶暴犬になっている。
「そういえば何度か、小型犬を抱っこした女性とエレベーターで居合わせたことがあります。」
そう伝えると、困っていた犬のおまわりさんは少し安堵した表情で礼を言って去っていった。
エレベーターで鉢合わせした小型犬も、女性の腕の中で僕を見ながら大暴れしていたのを思い出した。
言っておくが、僕は決して犬嫌いではなく、むしろ好きなほうである。犬の方が寄り添ってくれないだけなのだ。寂しい。
大きな事件でなかったのは良かったしむしろ拍子抜けしたのだが、それよりも驚いたのは、今どきは迷子の保護犬に警察が動いてくれるものなんだということだ。
僕の子供の頃はまだ放し飼いの犬や野良犬が多く、首輪の有無でどっちなのかを見分けていた。捨て犬も多かったし、通報するとしたら保健所で、飼い主が現れなければとっとと殺処分というのが標準スタイルだった。今の若い人が聞いたら卒倒するんじゃないだろうか。
そんな感覚がまだどことなく残っているので、警察がワンちゃんのために右往左往しているということに「ああ、日本は平和でいいな」としみじみしてしまったのである。
職業訓練選考会の合否通知が来た
先日、職業安定所主催の「総務・経理実務コース」職業訓練選考会を受けてから、今日で6日が経った。
選考会当日の説明で「1週間以内に合否通知が届きます」と言われていたので、あれから毎日ポストを覗くのが日課になっていた。
2日や3日では合否通知が来るわけないと分かっているのに、ポストを覗いては「ちっまだかよ」とソワソワする毎日を過ごしていたのだが、6日目の今日になって、ついに封書が入っていた。
選考会のときに「受講決定者にはあらためて説明会を行なうから、合否通知に同封されている説明を読んでね」と言われていたので、合格であればきっと封書は厚みがあるはずだろうと読んでいたのだが…。
受け取った封書はペラっとしたものである。
うむ、ダメだったかとこの時点でガックリ肩を落とした。しかし、開けてみなくては分からんだろうと脳内の自分に励まされ、おそるおそる開いてみると、
中にあるのはA4サイズの紙切れが1枚だけ。その冒頭に、
ぉおぅ、実にあっさりとした合格通知が。
受かった。マジか。受かったのか。倍率2倍の難関をくぐり抜けたのか僕は。意外とやるじゃないか。面接用スーツのクリーニング代をケチらなくてよかった。
通知書には他に、訓練開始の前日にハローワークでオリエンテーションと各種手続きをやるから、印鑑とかあれとかこれとか持参で14時厳守で来てちょうだい、辞退する場合は必ず電話で連絡を。という内容のことがギッチリと書かれていた。
そんなわけで僕は、数十年ぶりに学生となることが決定した。
文面からはわかりにくいと思うが、僕は今、家のリビングで喜びの謎ダンスを踊っている。
この歳で知らないことをイチから学ぶのは大変だろうけど、今は楽しみのほうが勝っている。吸収力に優れている他の若い受講生たちに馬鹿にされないよう、がんばってついて行かなくては (所信表明)。
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僕の知らない昔の家族の話
この間は自分が高校生だった頃の話をしたが、自分が生きていた時代は全部ひっくるめて「最近」と僕は表現している。
そんな最近のことよりも、もっと昔の、自分が生まれる前の人々の生活を知るのが僕は好きだ。身近なところでいうと両親や祖父母の若い頃の話や、さらには本からしか知り得ない江戸時代以前の話など。
身近な人から聞く昔の話というのはたいてい何かしらの補正がかかっているので、厳密にそうだったとは言いがたいところはあるが、それでも自分の知らない時代の話を聞くのは楽しい。
なのでまだ生き残っている母(昭和17年生まれ)との会話では、なるべく思い出話を引き出すような話題を振ることが多い。
今まで母から聞いてきた話の中で、楽しいなあと思ったのは以下のものだ。
- 自分(母)は6人きょうだいの末っ子だ。昔はバンバン子供が死んでたから、あらかじめ多めに子供を産むのが普通だった。だから自分は予備として生まれたが、なぜか6人全員が普通に成人してしまい、6人中3人が今も元気。(大正生まれの長兄は先日99歳で大往生したそうだ。)
- 昭和20年代の子供の頃は近くの川でいつも遊んでいて、そこで泳ぎを覚えた。たまに子供が流されて死ぬのも見た。初めて海に入ったときは、川と違って何もしなくても(塩分のせいで)浮くのでびっくりした。
- 昭和30年代の高校時代は登山部だった。共有の荷物を分担して運ぶのに、ジャンケンに負けていちばん重いガスボンベを運ばされた。女性差別はなかったが優遇もされていない。
- 高校生のときに車の免許を取って軽自動車(当時は360cc)に乗っていた。田舎では「女が車を運転してる!」とまだ珍しがられた時代。道路は未舗装だからしょっちゅうスタックして、困り果てているといつも後続車から次々とおにいさん達が出てきて、車の四隅を持ち上げてひょいと動かしてくれた。若い女でよかった。
- 高校生のとき、着飾って電車で街へ遊びに行ったはいいものの、豪雪で電車が止まり帰れなくなった。電話で家に救援要請をしたらなぜか長兄から仕入れを頼まれ (家は商売をしている)、オシャレスタイルのまま仕入品を入れた風呂敷を背負い、吹雪と雪山の30kmを歩いて帰った。
とまあ、こんな具合。若い頃はチャラい女子高生だったので、だいたい自分の興味のあることしか覚えていないようだが、当時の雰囲気はよく伝わる。
チャラいといえば、僕の祖父は晩年まで筋金入りのチャラ男だった。
田舎の明治生まれにしては珍しく東京の私立大学を出ている。大学生だったのは大正の終わりから昭和初期にかけての頃だ。
北欧風の顔立ちなのでさぞかしモテたんだろう。カフェーで知り合った女性と東京で学生結婚したものの、女癖が良くないこともあって翌年には離婚した。
祖父が大学卒業後に田舎に帰ってきてすぐ見合いをしたところ、相手の女性から一目惚れされ、また結婚した。そうして生まれたのが僕の父だ。
上記のこれは祖父本人から聞いたわけではなく、老人となってからの祖父の様子と、父母から聞いた話と、祖父の戸籍謄本を分析して僕が想像を働かせた内容なので話半分以下で聞いてもらえればいい。
普通、晩年はおとなしくなるものだが、祖父は80歳を過ぎても20代の女性をナンパして家に連れてきていたので、両親も困っていた。せめて借金なしで死んでくれたらよかったのにと、後年父がブツクサ言っていたのを覚えている。
僕の父はそんなチャラ祖父を反面教師に育ったので、仕事も熱心だし子煩悩だったけれども、亡くなったあとに母が「突然どこかから隠し子が現れたらどうしよう」と心配していたことがあった。この親にしてこの子あり、ってことなのか。
ちなみに祖父自身は3人兄弟妹だが母親が全て異なる。そして父は2人兄弟だが、やはり母親は違う。兄弟だけでなく母親どうしも仲違いすることはなく、普通に兄弟・親戚の関係だった。
祖父も曾祖父も県議会議員を経験しているので、単なる金遣いの荒いエロじじいではなかったみたいだし、当時はまだそういうことがちょいちょいあったようだ。そんな「昔の人ってそうだったよね」というひと言の中にも、様々なドラマがあるんだなと思ったりしている。
僕はというと、別に女癖は悪くないし最近は興味もないけど (彼女はいるけど)、離婚も経験しているので結婚には向いてない性格のような気はしている。血筋として受け継いだのはマイルドタイプだったみたいで、そこは自分的にはセーフだと思いたい。
高校生時代の話
現在のおじさんたちが、昭和50年代後半の高校生だった頃に、どんな青春時代を送っていたかという話でもしよう。
僕がどうだったかというより、当時の若者全般の話だ。
僕は昭和39年のオリンピックイヤー生まれなので、その近辺に生まれた人なら共感してもらえるところがあるかもしれない。
高度経済成長期はとっくに終わって、バブルはまだ来ていないという、そんな高校時代。
当時、芸能界はアイドル全盛期で、たのきん、キョンキョン、中森明菜、早見優、松田聖子、松本伊代、堀ちえみなどが活躍していた。おニャン子やチェッカーズも同年代ではあるが、高校時代に彼らはまだ登場していなかった。
ちなみに、山口百恵、南沙織、麻丘めぐみなどはひと世代上で、小学生のときに女子たちが夢中になっていた。
そのほかには、すでに第一線にいたユーミンやサザン、アリス、オフコース、アルフィーなどが人気だっただろうか。
YMOがカリスマ的な登場をし、子供からお年寄りまでもれなくテクノカット(もみあげを剃る)にするという、昨今では見られない現象も起きていた。
タケノコ族がブームで、体育祭の応援団といえばタケノコファッションか長ランに二分されるようなカオスな状態だ。この二者に共通していたのはリーゼント。しかし、軟派と硬派に完全に分かれていた。
僕ら田舎の高校生は、ブランド服を着たくとも近所には売っていなかったので、ジャスコで買った個性とはほど遠いファッションをするのがお決まりだった。
当然センスが磨かれるわけもなく、だれもが髪をテクノカットにし、短かめのジャケット(当時はジャンパーと呼んでいた気がする)を羽織り、無駄にタックがたくさん入ったズボンを履き、シャツをズボンにインするという姿で、休日にチャリンコを漕いであてもなく出かけたりしたものである。
まだファミコンがなかったので、家で過ごすのは勉強か読書かぐらいなもんで、そういうタイプはネクラ(陰キャのこと)などと呼ばれたりした。
よく「携帯電話のない時代にどうやって連絡を取り合っていたのか」と聞かれることがある。だが、今考えても携帯電話なしでどうしてコミュニケーションが取れていたのか、自分でも不思議でしょうがない。僕たちおじさんは、携帯電話が一般に普及し始めた平成中期から、どっぷりと携帯電話とともに過ごしているから思い出せないのだ。僕もケータイ歴26年だ。
当時は、学校で事前に約束するか、直近なら家電(いえでん)で「〇〇くんいますか」と所在の有無を確かめることからやっていたように思う。いなければいないで「はい、次〜」と捕まる相手を探すまでである。相手が女の子の場合は、受話器をとってダイヤルするまでに、「親が電話に出たらどうしよう」と、ためらいと決意の間を何往復もするなんてこともあった。
昭和ブームか何かよく分からないけど、最近よく古き良き時代などと呼ばれて、昭和を一括りにされることがある。僕はこれを非常に不満に思っている。
なぜかというと、昭和は60年以上続いた時代だ。「古き良き昭和」を模したものは主に昭和30年代を指していると思われるが、戦前からバブルまであれほど目まぐるしく変わった時代を「昭和」でまとめられるのが違和感この上ない。平成で例えるなら安室奈美恵と橋本環奈が同時代同年代にされるようなものだろう。
あと付け加えるなら、今の世代の人が考えるほど良き時代なわけがない。仮に現代に不満を持つ人が当時にタイムリープしたら、不満が増幅するだけで終わると思う。モラルなんてないに等しい時代だからな。差別言葉に「差別」という概念はなく、おじさんは人混みでくわえタバコ、池の周りに柵はなく子供は溺れ放題、バスや電車だって降りる人を押し退けて我先に乗車口へ殺到するのが当たり前だったのだから。長距離列車に至っては「駅弁を食べたあとのゴミは、きちんと座席の下に置きましょう」というのが正しいマナーだったのである。信じられるかね?
話は少し変わるが、僕の両親は僕と同じ昭和生まれ(ただし戦前)だ。そして祖父母は明治生まれ。
子供だった頃の僕は、祖父母が生まれた明治時代なんて遠い遠い大昔の話だと思っていた。なにしろ祖父母のさらに両親世代に至っては、江戸時代か文明開花時代の生まれなのだ。もう歴史の教科書の世界だ。
最近は、子供は令和生まれ、親は平成、祖父母が昭和、というパターンも増えてきたと思う。それはつまり、令和の子供からみた昭和生まれのおじいちゃんやおばあちゃんは、僕たちが子供だった頃に置き換えると「大昔の明治の人」という感覚に等しいわけである。
僕らの高校時代も、本当に歴史となってしまったわけだ。あの頃から気持ち的には何ひとつ進化していないのに。
明治のおじいちゃんおばあちゃんも、見た目とは裏腹に心は学生のときと変わっていなかったんだろうか。
そう考えるとなんだかすごく不思議な気持ちになる。
職業訓練の選考会
職業訓練の選考会に行ってきた。
クリーニングに出していたスーツは間に合った。数年ぶりにスーツを着たが、ネクタイを締めるとどことなく気が引き締まる。少し緊張してきた。
髪もひさびさに整えて、鏡で見る姿とは裏腹に、ガッツリ就活生な気分だ。
僕の希望する「総務・実務コース」は20名の募集枠に対し40名超の応募があるのだが、指定時間の20分前に選考会場に到着したにもかかわらず、すでに半数程度の人が着席していた。ほとんどが僕よりずっと若い女性だ。みな就職面接用の黒っぽいスーツを着ていて、その中にポツンと入った僕はとても場違いな雰囲気が漂う。
係の人に案内され、40人が入るには少し手狭な机の間を「すんませんすんません」と手刀を振りながら指定の場所に着いた。
参加者が埋まったころに周りを見渡すと、僕と同年代らしき女性や男性も少数だがいる。安心した。
時間になり、最初の30分は選考会で行なう内容の説明のほか、以下のような諸注意と連絡を受けた。
- これは職業訓練であり、就職する意思のある人が受講するべきものだからね
- もし趣味や時間潰しのつもりで受けようとするならお門違い。なんなら今すぐ退出してもらって構わないよ
- 今日は筆記テストが終わったら一人ずつ面接をするので、それが終わったら帰っていいよ
- 一週間以内に合否通知を郵送するから、もし届いてなかったら連絡してね
- 選考で受講が決まった人にはあらためて説明会を行なうから、合否通知と一緒に入ってる説明をよく読んでね
- ちなみに受講途中で就職が決まって退所することは可能だよ
「趣味で受講する」の部分で僕のほうを見て話していたような気がしたが、気のせいだと思いたい。きっと過去に実際そういう感覚で受講しようとした人がいたのだろう。税金を使って職業訓練するのだから、趣味で受けられたりなんかしたら納税者としては迷惑な話だ。
最初の筆記テストは、いわゆる「適正テスト」と呼ばれるものだ。この日のために研ぎ澄ませてきた鉛筆が本領発揮する時がやってきた。
内容は、簡単な筆算や短文の誤字探し、展開図から組み立てた図形を選ぶなど、誰もが経験したことのあるものだと思う。時間との勝負なのにも関わらず慎重に進めすぎて、半分程度しか答えられないセクションもあった。
続いては面接だが、これはどうやら申し込みの先着順らしい。僕は最後から2番目だった。
一人あたり10分程度とのことで、複数の面接官が手分けをして同時に数人が面接できるよう工夫されていたが、順番が回ってくるころには2時間が過ぎていた。待ち時間が一番疲れたかもしれない。
軽い自己紹介と応募の動機、あとは面接官の質問に答えるという、多分よくある就職面接である。(こういうのは30年ぶりなので、自分の就活生時代のことは全く覚えていない。)
「早期退職して、今後は個人事業主として仕事をするつもりだが、ずっと技術畑にいたのでお金のことが全くわからない。だからここで勉強したいと思った」という、このブログで以前から書いているようなことを素直にそのまま話した。
面接官は、決して意地悪ではなくシンプルに疑問として「社会人経験が長いんだからお金のことはそれなりにわかっているのでは?」と問うてきたが、そこは「いいえ全く」と潔く答えた。あらまあという顔をされたが、面接官自体がお金のプロなので、いい歳したおっさんはみんなお金のことを勉強していると思い込んでいるのだろう。まあしょうがない。
ちなみに面接官は、自治体から教育を委託されているビジネス学校の講師である。晴れて受講となった場合に先生になる方々だ。
ここまでのやり取りで僕は気づいた。面接における合否の判断基準は、どうやら「受講後の一定期間の間に就職できる見込みがあるか」ということのようだ。委託業者ゆえ「就職率」という実績が今後の委託継続に関わってくるわけだ。おじさんはそういうところに勘が働くタイプなのだ。
実際僕が「個人事業主としてーー」と話したところで、あからさまにぱあぁっと目を輝かせて「確か個人事業主の届け出も就職実績に入りますよねっ」と面接官どうしがキャッキャと盛り上がっていたので大変わかりやすかったのだけれども。
終始なごやかに面接は進み、終わったころには5時の時報が聞こえてきた。
今日の調子だと僕は見込みありかもしれない。向こう一週間、ドキドキしながら毎日ポストを覗くことにする。
9年ぶりに鰻丼を食べた
岐阜県関市の老舗鰻料理店へ行ってきた。
ウナギを食べるのは9年ぶりだろうか。
鰻の漁獲量は平成25年の記録的不漁の頃からあまり劇的に上がっておらず、しばらく食べるのを控えていたのだ。世の中がウナギ自粛の傾向にあるせいか、以前に比べて老舗の鰻料理店が随分減っているように感じる。
牛丼チェーン店で格安の鰻丼が供されるようになったり、ここ2年のコロナ禍不況もあって、ますますそういった老舗店は苦境に立たされ続けているのだろう。
しかし食べるのを我慢したせいで、せっかくお客さんに食べてもらうために用意された食材が無駄になるというのも本末転倒である。
鰻屋さんにはどうか生き延びてほしい。そんな思いを抱えながら、ウナギ食べたい欲の限界点を迎えた僕は、先述の老舗鰻料理店、辻屋へ行ってきた。
辻屋は江戸時代末期ごろの創業だそうだ。
関市の中心部にあるアーケード商店街の一角にあるのだが、他の店はシャッターの閉まった店が多く、この店だけ行列ができているような状態である。
関市内には他にも何軒か有名な鰻料理店があり、行列嫌いの僕は他の店にも行ってみたのだが、どこも閉まっていて結局行列に20分程度並んだ。
店内はかなり広く、満席のために料理が出てくるのにも時間がかかる。
30分ほど待ってようやく僕の席にもウナギがやってきた。
10年前までは並丼だったものが、今は上丼と名前を変えていた。値段も3000円ちょっと。米が以前より固くなったように感じたが、それは多分自分が歳を取ったせいだろう。変わらぬ辻屋の味で安心した。